水彩画の様な淡く滲む背景。モノクロな立ち絵。テキストの微妙な浮き具合。哀愁さそうBGM。全ては閉ざされた世界が腐る様を描くため。全てにおいて高水準な作風で統一されているわけで。打ち捨てられた建物に漂う無常観があり、過去に囚われ前にも後ろにも進めない圧迫感があり、親近相姦という愛慾に満ちた窒息感があり、愛慾、肉慾の果てにループという夢幻の廻廊が続いていく。それらを包括するのが蔵女がもたらす「腐り落ちた果実のにおい」であるわけです。言ってみれば、6月の梅雨の時期、息が詰まるような湿気の中で何処へ出かけるでもなく鬱々と過ごす昼の雰囲気にも似た世界観。それを「美しい」と感じさせた時点でこの作品の成功でしょう。
くさる
腐り逝く世界。
雨の降りつづく夏の日に、
深紅の着物の少女と出逢った。
少女は、腐り落ちた果実の匂いがした――
腐り姫OP
それを美しさと感じるのは我々が持つ独特の気風であるのでしょう。「滅びの美学」。それは「停滞」であり「退廃」。琵琶法師の語る平治物語「盛者必衰の理を」の件に、新撰組の散り様に心奪われるのも、結局はそこに美を見出すからでしょう。綺麗は汚く、汚いは綺麗。「美」の中に「醜」を見出す土壌があったからこそ出来た物語でなのではないでしょうか。
樹里という実妹を拒みながらも愛する五樹。
人間の欲望を具現させる蔵女。
近親なのに、だからこそ愛する女性達。
伊勢にしても身体のハンデキャップ(捻じ曲がった足)のせいで一種の忌避性が生まれ。肉体では無く精神を愛するという究極のプラトニックを描く青磁でさえゲイという社会的に忌避されるものを持っている。
そこの奥底にはやはり崩れゆくものの美しさ、グロテスクだからこそ一層心惹きつけられるというものがあるのでしょう。
それでも「前進」というか前に(世界に)進んでいく羨望をも同時にみせてくれます。退廃美だけでなかったからこの作品は、美しい。奇しくもそれは実の妹、樹里。義理の妹、潤を持って描いていきます。
なぜ潤に対し蔵女は特別に興味を抱くのだろうか?
なぜ潤が最後に腐らせられるか?
なぜ潤が蔵女の手に落ちて五樹は覚醒したのか?
なぜ蔵女は潤を腐らせなかったのか?
そして、なぜ五樹は潤にあそこまでの執着をみせたのか?
潤が向いていた方向を見ればそれらの答えはみつかるのかもしれません。覚醒後の五樹が蔵女と一緒に見た潤の姿には未来があったから。過去に向かい歩き続けた今作最凶のヒロインである樹里とまったく反対の道を、潤は辿ります。
「音楽をしたい」という漠然とした、しかし将来に向けて歩こうとしていた潤。
兄と結ばれたい、ただそれだけの思いで結局、自分で命を絶つしか無かった樹里。
それは新撰組に憧れを抱くと共に坂本竜馬を尊敬する私たちにも投げかけられているのではないでしょうか。どちらに美しさを感じるか、結局のところそれは読み手に委ねられます。
退廃に美しさを感じると共に進歩に憧れを抱く。私たち日本人が持つ矛盾したような感情を美しくも儚く映し出した世界が今作最大の魅力でなのでしょう。