思えば、瀬戸口氏が今まで描いてきた作品は”エロゲーマー”にとってあまりに重たいものが多すぎた。『CARNIVAL』はポップなOPムービーとは裏腹に、家庭の不具に壊されていったふたりの子供のお話だったし、『SWAN SONG』は地震によって全ての価値観が壊れた中での人々の足掻きを描いた作品だった。アドベンチャー形式の出力が多くなった昨今に逆らうようなビジュアルノベル形式と過剰なまでに描かれる心理描写。さらに「萌え」も「エロ」も無く、宗教への言及や様々な文学作品からの引用が目につく氏が手がけた前二作は、まさにエロゲという媒体では”異端”に他ならなかった。それゆえにシナリオライター『瀬戸口廉也』という名前がエロゲーマーで売れることになったというのは、まあ間違いでは無いだろう。
だからこそ今作『キラ☆キラ』は今まで氏が手がけてきた作品とあまりに毛色が違うため戸惑いを覚えた人も多かったのではなかっただろうか。
内容が学園青春パンクロックものであり、氏が今まで手がけてきた作品とイメージが違うことは言わずもがな。しかしそれ以上に、ニコニコ動画およびYouTubeへのファイルをアップ。発売後にはニコニコ動画でプロデューサー達が実際に作中の曲を演奏した動画を公開したり、インターネットラジオを公開。d2d、作中の「第二文芸部バンド」を実際に結成してのCD展開。さらには漫画化という、そうした一連のメディアミックス化する動きはあまりに”商業的”であり、エロゲイイデア的なものから乖離した瀬戸口氏の作品とはあまりにイメージが合わなかった。しかし、どうなるのだろうという若干の不安をよそに蓋を開けてみれば、やはり”面白い”作品だった。
「まあ、親父もロック少年だったからね。ボクもよくゲリラライブとかやらされた。中学生の頃、祖父の葬式でやったときは親戚に殺されそうになったっけ」
殿谷は相変わらず澄ました顔でひどいことを言う。
「でもあれも、親父なりの死者への追悼の表現だったんだ。だって、葬式だからね、ちゃんとね、涅槃とかけて、ニルヴァーナをやったんだよ?」
そして僕達はパンクロッカーになった。
もちろん、家庭でもパンクロッカー、学校でもパンクロッカー、そしてバイト先だってパンクロッカーである。
その日早速僕ときらりはバイトがあって、そこで僕らはパンク名居酒屋従業員。頬を叩き、二人でスクラムを組むと気合を入れあって勤務に挑む。
「お客様のくそったれなオーダーは決まりましたか?」
と僕。
「こちらのマザーファッカーのお客様は、ファッキン生中ですね?」
これはきらり。
「お前ら何言ってるんだ?」
と、これは店長。
『なんでもないです! ファックオフ!』
声をそろえて僕ときらり。
だが”面白おかしい青春”だけがメインにならないところにこそ”瀬戸口氏”の作品である事の魅力を感じる。
ライブツアー中に出会う人たちとの関係は、段々と知り合いの輪が広がり、ブレーメンの音楽隊のごとく大所帯になり、最終的には全員集合してのライブという流れが、”エロゲ”的には正しいかもしれない。それはエロゲでは意図的に目を逸らしてしまう”主人公と結ばれることが無かった女の子のその後”のように、自分たちが世界の中心で自分たちのために世界が回っているという錯覚。何もエロゲに限った話では無く、それはごく普通に見られる。
ただ瀬戸口氏はそれと向き合い逃げる事無く描いた。氏の描き出す登場人物たちはどんなに心を通わせあったとしても、自分の世界を持っている。
「道頓堀は汚いって言うけれど、夜の水面はネオンを反射して綺麗だね」
「そうだね。表面だけピカピカして綺麗だなんて、まるで人間社会みたいだ」
「でも、本当にこんなにたくさん光ってるんなら、人間社会もおもしろいねっ」
それはどんなに溶け合って見えても、個々の輝きが遠くから見て、”キラキラ”に見えているに過ぎない。本編中でも一見無敵に見えたバンド、スタジェネも最後には解散してしまうし、第二文芸部バンドだってどのようなルートを通っても最後まで残ることは決して無い。そして千絵が思っていた、家族は出来れば壊れないものという、また紗理奈の祖父である正次も、どんな事があっても子供は子供だという、思っていた繋がりもまた、実に容易く壊れてしまう。
氏はありふれたものをありふれたものとして描かなかった。だからこそ『キラ☆キラ』が『キラ☆キラ』として成り立っている。
近づけばキタなく、眺めればキレイ。どんなに汚れていたとしても離れてみれば、やはりキラキラと輝いていた時間。子供たちが大人になることを少しだけ理解した時に、輝いて見えるもの。それこそが『キラ☆キラ』なのだろう。